意味はきっと、ある

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今は少し季節性もあってゆっくり気味であるけれど、私は何かを学んだり普段していることを改良することが好きだ。

 

多くのことはテキストだけでは終わらない。例えば植物。花をつける植物が、どのような構造で、それぞれの部位がどのような働きをし、花をつけ、種子を残すまで本や教科書、ネットで知った上で、実際に目で見て、それが野に咲く様を見ればそれがいかに素晴らしく、完全で、美しいことか感じられることだろう。知らなくても美しさは感じられるが、知ればより深い感動をすることができる。

 

学ぶことは世界の美しさを感じるためのものでもあり、また「私」という存在が世界にどう機能するのかという課題でもあると私は思う。生きているだけでそれぞれがなんらかの影響を与えている。植物が花を咲かせるように、私たちがなんらかの思考・行動・感情を持つことは意味があるのだと私は思う。

 

学歴や職歴だけで人の全てははかれないように、名前や性格や容姿だけでもやはり同様にその人の全てはわからない。一つ一つに意味があり、それらが合わさって今の自分がある。それぞれの個が集まって集団になり、またその中で個は機能を果たしている。すごいなあと私は思う。意識的にせよ無意識的にせよ私たちは生きて、互いに生かされているのだ。

 

一人で自分の殻の中にこもっているとき、特に社会から取り残されているように感じているときはそういうのが見えにくいと思う。私自身そうだった。そうして、どうして自分がこんな思いをしなければならないのかと自暴自棄になったりもした。打つ手がない時はなおさらだ。でもそんなときにさえ、すべてのひとやものが関わっていると意識を向ければそんなに寂しくはならないし、大丈夫な気がする。

私は体調が悪化してほとんど一か月外にも出られなかったときに、配達の人や家族に毎回「届けてくださってありがとうございます」「私の代わりにしてくれてありがとう」というのを心がけていた。

 

感謝をしよう、とよくいわれるがこれは感謝して相手に敬意を示すだけでなく、世の中は皆が関わっているのだということを意識にあげるためだと私は思う。郵便物が届くのも、診察を受けることができるのも、沢山の人が関わっている。それは実際に勤務している人だけではなくて、その仕組みを作ってくれた人や、そういうシステムがあったらいいなあと考えてくれた人たちも含まれる。まさに縁である。

 

そういう風に世の中ができている、まわっていると理解するためには学びつづけることが大切だと私は思う。「私なんて」というのをすこしやめて、知ろうとしてみよう。

いつものやりかたをほんの少し視点を変えてやってみよう。

生きる意味はきっと、ある。

 

この言葉が今臆病な誰かに届けば幸いである。

 

Photo by bluesilence(stable diffugion)