笑って、踊って

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雀踊りなるものの動画を見ていたら半日が過ぎてしまった。なんということはない踊りなのだけど、見れば見るほどすずめがちゅんちゅんしている姿に見えてくるから不思議だ。

 

いまいち盛り上がりにかける踊り、と誰かがコメントに書いていたがそうかもしれない。でもいいじゃないかと思う。踊りは歌やお囃子にのせて体を動かして楽しむものであって、楽しければそれでいいのだ。

 

そういう意味では私は踊りを見るのが好きかもしれない。いや、なんなら参加したい方である。(人酔いするけど。)炭坑節と父の実家のある三原のやっさ踊りならなんとか踊れる。炭坑節はわりと型がある感じだが、やっさ踊りは結構適当な踊りだったりして、リズムに合わせて舞ってればそれなりになったりする。(少し足捌きにコツはいるけれども)炭坑節の踊りもそんなに難しくはない。

 

第一、はじめに踊った人たちも酒が入ってかなりへべれけになりながら千鳥足で舞っていたんじゃないか、と想像してしまうのは私だけなんだろうか。日本でフラッシュモブは流行らないが、各地元の音頭を聞けば反射で体が思い出す人はまだ多い気がする。

 

魅せる踊りもいいけれど、私は踊りは踊ってなんぼだと思う。豊作だ、祝いだ、やれめでたいと皆それぞれに自由に踊る感じ。皆で楽しみましょう、というあの感じが私はわくわくしてしまう。今住んでいる地域にはそういう伝統的な踊りがなくてちょっと残念である。

 

エンタメが発達して、今はもうみんなで一同に集まって踊るなんていうスタイルはもう流行らないのかもしれない。踊るのは下手だからそういうのは嫌だという人もいるだろう。下手も上手いも一緒になってわいわいやるかんじではないのだろうな。学校の運動会の見せ物として踊る地域もあるのだろうけど、ちょっと違う気がする。少し寂しい。

 

笑って、踊って、皆で楽しみましょうというのがもう難しいのなら皆で楽しみましょう、だけでもいつまでも継承できたらよいよね、と思う。

 

Photo by すしぱく

公園のすずめ達のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20110430116post-37.html

空白時間

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月に一度の休暇時間である。

月によってまちまちだけど、だいたい5日間くらい。その間は仕事もしないし、生活に追われもしない。

 

追われない、というのはいいことだ。特に私のようにすぐのめり込んでやりすぎるタイプにとってはこういう時間が約束されているだけで気持ちに余裕を持つことができる。勉強したいと思えば勉強するし、街にでてフラフラと散策することもある。

 

先週はインフルエンザできつかったから、調整するにはちょうどいい感じである。

何か特別なことをするわけではないけれど、なるべくゆっくり過ごすことにしている。

 

こういう予定の一切ない時間を毎月もつ、というのは大切であるように思う。より創造的なことをするためにも働き詰めでいるとバテてしまう感じがする。私の場合体力がない割に、一度集中すると体力ゼロになるまでやる悪癖があるので休みながら働くのだけど、仕事と仕事の間に休む、というのはどうもよく休んだ気がしない。月に一度こうしてまとまった休みの日をもうけるようにしたのは我ながら正解である。

きつくても、まあ、休暇時間があるしな、で済む。

 

それに私の想像力は余白から生まれることがほとんどであり、仕事や生活でいっぱいになって思考していない感じになると自分がどんどんだめになっていく感じになる。自分らしさの欠損とでもいうのか、ポロポロと欠けていってしまう。いろんなことに体を使って体験し、見聞きしてこそ私の感性はより深く磨かれていく。

思考し続けるためには空白時間がなければいけない。

 

生き急ぐことなく、一歩一歩ゆっくりいこうと思う。

 

Photo by bluesilence

甘えられ放題

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インフルエンザの自宅療養期間がようやく明けて、咳も治ったので動物カフェにいった。

鳥もうさぎもカメもナマケモノもいる。もちろんフクロウも。そのカフェにいくのは2回目なのだけど鳥がどの子も甘えん坊でかわいいのである。大好きな鳥を見放題だけでも天国なのだが、あたまなでろ〜と言わんばかりに頭を下げてカキカキを要求してくるので、順番に一羽ずつカキカキしてあげた。待てなくて呼びなきするコもいて愛おしい。

 

甘えられるというのは動物であれヒトであれうれしい。ささいなことでもだ。とはいえ、度がすぎるとまずい。魔入りました入間くんよろしく、なんでも「いーよー」といってると相手に調子に乗られたりする。今日も調子に乗ったオカメインコに肩に居座られ、もう片方の手はサザナミインコのカキカキのためにとられてしまった。ちょっとでもさぼると文句を言われるのだ。動物カフェに癒されにいったのに鳥たちに奉仕してしまった。

 

まあでもいいのだ。動物もヒトも甘えられるうちはまだ元気なわけだし、むしろ甘えてこないコの方が扱いが難しかったりする。ヒトだって同じだ。わかりやすく甘えてくる人はなんにせよ返事しやすいが、なにもいわず一人黙々とやるタイプの人はとっかかりが難しい。私は初対面で比較的誰とでも話せるタイプだけれど、話さない人や一人でいる人はよく観察することが必要だ。でもそういう人が笑顔をみせて話してくれた時はとてもうれしい。

 

私も甘えるのはあまり上手な方ではないけれど、前よりは甘える回数がかなり増えたと思う。相手が甘やかしてあげるよモードの時に喜んで「わーいありがとう」とよくいう。遠慮しないで一緒に楽しむようにしている。

甘やかされると、こちらもまた甘やかしてあげようという気になる。

 

みんなこうだったらいいのにな、と思う。甘えて、甘えられて。人間、生きてるだけで波があるからそうやってお互いを支えられたらお互い少し楽になる気がする。

 

Photo by とむ

飼い主の腕に顎を乗せ甘えるにゃんこのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20190335067post-19880.html

風邪だと思ったらインフルエンザだった

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咳がひどいのと熱が下がらないので、病院にいったらインフルエンザB型だった。病院行った時点で「相当きつそうだからコロナと肺炎とインフルエンザの検査しますねー。」と言われて汗をかきながらよたよたとレントゲンと血液検査と鼻に棒いれられてふらふらだった。

しかも血液検査失敗されてとりなおし。丸二日ほとんどなにも食べれない状態でこれはきつい。

 

医者も看護師も呼吸症状からコロナ疑ってたらしく結果見て「あーよかったですね。インフルエンザで。」と言われたのだけど「いや、全く良くないよ!?」と内心思いつつ、もう発話もできずに帰宅して咳き込みながらイナビルを吸引した。おかげさまで熱は下がり残るは咳だけである。咳もだいぶ楽になってやれやれである。

 

風邪はよくひくから、今回もまあ風邪だろうとなめていたら、咳がひどすぎてえらい目にあった(丸三日固形物が一切食べられずひたすら水分だけとりつづけた)。これ年寄りだったら本当に死んでしまうなと思った。

 

それにしても頑張って稼いだお金が病院代で溶けてしまうのは悲しい。やっぱり必死になってやったらダメなんだなあと思う。毎回働きすぎて体壊している気がする。配分を考えよう。

 

それに働きすぎると反動で食事が適当になりがちである。昔知り合った人に、仕事が忙しいから毎晩冷凍食品いう人がいて「いつも顔色悪いのそれのせいだろ」と思っていたのだけど、実際私も冷食ばかり食べているから笑えない。これまで冷凍食品なんかろくに買っていなかったのに。

 

どうして私は他の人の1/3くらいしか働けないんだろう、くやしい、と欲深い私は思うのだけど思ったところで「はーい、んじゃ今から体力チートスキル付与しまーす」てなことにはならないので冷静でいる必要がある。ないものはないのだ。同世代の人これくらい働いてるよとか言われても私にはどうしたって同じことができないのだし、できることをやるだけである。

仕切り直してまた来週から頑張ろう。

 

Photo by すしぱく

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静寂の力

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誰かと話す時、なかなか話しづらい時や間が開いた時、私はそれを無理して埋めない。ゆっくり落ち着いて様子を見て相手が静かにして欲しそうだったら、目があったら穏やかに微笑するにとどめる。そして一日何も話さなくても目を見て一言挨拶はするようにしている。

 

私はカウンセリングの手法を学んでいた際に、あまりに相槌を打たず、共感もせず、話も進めなかったので講師から常にその逆をできるようになるよう指摘された。そうしてできなさすぎて詰んだ。

丸二日間のマンツーマン集中カウンセリング講座に申し込んだ時、丸一日かけてできずに説教されて終わった。それでもなにも習得せずに帰るのは嫌だったから二日目も行った。講師は朝から超絶不機嫌であった。そりゃそうだ。長い沈黙のあと講師はため息をついて「もう今から私が適当に話すから自分なりにやってみな」と言われて、「ため息ついてなにかあったんですか?」からはじめて、相手が黙っても流れに身を任せた。するとポツポツと相手は話し始めた。はじめはかなり不機嫌に(当たり前だが前日私を一日説教したせいである)、それからだんだんと日々抱えているストレスを話し始めた。気がつくと二時間経っていた。「そこまで。」と講師が手をあげてようやく終わった時、気づけばコアの問題まで触れて解決していた。

「あなたは基礎通りにやるより雑談がうまいからそこから深いところまではいっていくカウンセリング方法が合ってる。かなり型破りだけど。」

講師は言った。「腹立つけど、雑談しながら気がついたらペラペラ喋ってしまうんだよなぁ。意図的にしてるなら天才なんだけど。しかもこっちが黙ってもにこにこもしないで話はきちんと聞いてる。こっちは聞いてもらえたっていう気持ちになる。普段からこうなの?」

「そうです」と私はこたえた。パートナーが話す時は話すが、話さない時は別に不機嫌でないのでその癖がついていたのである。

まあ結局共感力なさすぎてカウンセラーは諦めたけど、今でも気がつくと人の相談によくのっている。(というか相手が勝手に話すことが多い)

 

話さないことを悪く考えないで、静寂をただ楽しむようにするのは私の得意なことだ。むしろ話さない方が多くのことを共有出来ることもある。

 

だから私は無理して話しかけもしないし、無視もしない。輪に入ってきたそうな人には惜しみなく声をかけるし、静かにしておいて欲しい人にはそっとしておく。盛り上がっていて自分も入ったらよさそうなときは一緒に盛り上がる。

だから私は外交的でもあり内向的でもある。いずれにせよ静寂や拒絶を恐れない。

 

それは私のスキルなのだと思う。

私にはこのやり方が合っている、というだけなのだ。それでいいのだと思う。

静かに観察して、間を楽しんで、流れるように話をする。無理して繋がない。黙って過ごすだけでも多くのことを共有しているのだから。

 

Photo by  安西成文

日暮れのオレンジの空と静かな宮古島の海のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20230829243post-48347.html

読書の楽しみ方

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本を読む、ということに抵抗がない私は文字を見ただけで嫌になる、という人種がいることを全く知らなかった。そこまでいかなくてもテキストを読むことが嫌な人はどうもいるようである。

 

でもそういうひとでもラノベは大丈夫だったりするからそこまで心配はしていないのだが、先日文章を読むことそのものがだめな人に出会ってしまって、話が合わなさすぎてまいった。

読書をすすめるわけではないけど、文章を読むことそのものに抵抗があると日常生活に支障がでていそうである。

結局実体験から興味をもつように博物館や美術館をすすめてみたのだけど、それら=学校の勉強と結びついているようで「なにがおもしろいの?」と言われてしまった。

 

本を読んだり、テキストを読んだりすることは脳の中の情報をカテゴリー化させるのに役立つ。世の中の全てを体験することは難しいが、読書をすることによって知らないことでもある程度認識することが可能になる。

妄想が捗る、という言い方を私はよくするけど全てのものは情報に過ぎない。それを手っ取り早く吸収するには読書は最適だ。

 

とはいえ、私は幼少期から読書には抵抗が一切ない。本のある生活が当たり前だったし、鬱の時すら読書はしていた。そうではなく、文章そのものに抵抗がある人をどうやって興味を向けさせるかを少し考えてみた。

 

1.ただ表紙を眺める。

表紙や装丁が綺麗な本や絵本をただ眺める。愛着がわいたらそれでok。

2.聞く読書をする。

オーディオブックである。最初は短めのものがいい。

3.世界の名作を絵本で読む。

絵を見ながら各作者の独特な言い回しに慣れる。

4.音読する。

抑揚をつけて文章をよむ。口にすることで、音と文字を結びつける。

5.漫画を読む。

知ってるアニメやドラマの原作漫画を読む。イメージと文章を結びつける。

6.文章をセンテンスで読むたびに褒美を与える。パブロフの犬形式。

 

とか考えてみたけど難しい。

だいたいうちだって家庭環境が同じでも読書習慣が身についたのは私だけだったし、下の妹は国語が苦手すぎて大学まで苦労していた。

 

抵抗がないに越したことはないけれど、人によって得意不得意は違うわけで、文章を読むのが苦手でも生活に支障がないならそれでいい気もする。先日出会った文章苦手な人は読めないことでもはや生活に異常をきたしていたのでつい「それはなんとかしたほうがいいわ」と言ってしまったのだが本人は幸せそうなのでなんとも言えない。

 

幸せは個人の主観でしかないから、本人が幸せならそれでいいともいえるが、読めないことのリスクはかなり大きいわけで、自らの勉強不足を大いに反省した。なにか読書=楽しいに結びつく体験があればいいな、と思う。

そういうサポートをしているひとたちはどんなやり方をしているのか大変興味がある。

 

Photo by エリー

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「明日休みます」が言えない

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前日からで始めた咳は翌朝さらにひどくなり、頭痛、さらに発熱してしまった。翌日は仕事である。

幸い37度台だし、なんとかしてみようと咳止めとカロナールを買ってきて服用→36.8まで一時的に下がるがまたあがってしまう。

まあいいや、翌朝まで様子見ようと思ったけど息子が帰宅してから「明日仕事は休むんだよね?」と言った。「いや、行く予定だけど。ただの微熱だし。」「いやいやいや、おかん持病もちだしそれ悪性だったらどうすんの?休みなよ。つーか咳ゴホゴホしながら仕事とか迷惑でしょ。」「あー…そうね。考える。」「いや、考えんでいいから休みなよ。たかが仕事でしょ。倒れたら元も子もないよね。」

 

という会話を咳き込みながらしたのち、仕事先に連絡をいれて休むことにした。こんなことで休むのは初めてである。だいたいインフルエンザ並に寝てるしか出来ないほどでもないし、余力はまだある方である。しかしよくよく考えてみたら私が良くても周りは良くないであろう。私だって咳ゴホゴホしながらぼうっとした顔して仕事してる人いたら早退しなよというに決まってる。今の仕事先は結構皆それぞれの理由で休んだり早退する。それでいじる人もいない。きちんとした会社である。なのにどうして明日休みますが私は言えないんだろう。

 

考えてみて前職がブラックだったことを思い出した。そもそも上司は雪で電車がとまろうがこい、熱でも来い(そのくせ自分が体調不良になるとすぐ休む)、抗議した人はクビ、という人であった。就業中に従業員が泣き出すこともあったし、そんなこと知らんがなと思える人しか残っていなかった。考えてみれば超絶ブラックである。いやはや、今書いてみると無茶苦茶やばい。私も何度も椅子の脚を蹴飛ばされたし、かと思えば深夜12時に謎の長文メールが飛んでくる始末でよく平気だったなと思う。

 

私はその会社にも上司にも忠義心などなかったから自分に利があればいいやと考えていた。

しかし長年にわたって身についた休まない癖はそのあと短期間だけしたスーパーのパートでも同様だったし、挙句一過性の聴力低下とアレルギーをこじらせてやめた経緯がある。なのであんまり会社側に迷惑をかけたくない気持ちがある。でもまあ、辞められる方が迷惑かかるわけだし休んだ方がいいのは頭で理解している。

理解しているけど極力休みたくない。

 

休むのはいけない、というブレーキがあるんだろうな。両親は揃って健康的な人であり、風邪など引かない体質だから私がしょっちゅう腹痛を起こしたり、熱を出してもすぐにかかりつけに連れて行って、なんなら午後からでも学校に行かせる人だった。医者に「何考えてるの!休ませなさい!」とでも言われない限り休んだ記憶がない。担任が異変に気づいて早退した日には逆に叱られてたし。

 

いい年してまだこんな思考にとらわれていることに苦笑する。私のブログ読んでる方は辛い時はきちんと休んで欲しいと思う。

ま、明日はもう休み連絡したしひたすら寝るだけである。何をするにも健康でなければ何もできない。人間そんな完璧にはできないし、体調コントロールとか言われても発熱することはある。ペナルティなしでもっとゆるゆるで働ける風潮になったらいいなと思う。

 

Photo by  01

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