自分との約束を果たす

記事を書きながらとうとう私も「誰が読むんだこんな記事」の心境に達した。噂に聞くブログの壁である。「つまんない」「これどうして書いちゃったの?」批判する声が頭の中に響く。それをききながら私はニヤニヤしてしまった。

 

批判されたら一人前という考えがある。バズるも一つの指標ではあるが、自分で「おいおいおい、やめちゃえよー」という状況になって悶々と書けなくなってからが本番である。これは今までの限界を越える壁なので何気にきつい。きついのだが、成長している証である。やらない人に批判は生まれない。

 

なので私はこの状態になると「キタキタキター!」になるし、「ぞくぞく」し「たまらない」気分になる。少し前に流行ったコーチングみたいだな、と自分でも思うが他に言葉が見当たらない。とにかくうれしくてニヤァとしてしまう。

 

で、ニヤニヤしながら半端でも続けていく。壁が壊れて先に進み、また壁にあたる。これの繰り返しである。

 

私はスコアを競うのが好きなゲーマーなので、詰んでくるとテトリスの音楽が聞こえてくる感覚がする。チャーチャチャチャーチャチャというあの音楽が脳内で流れて私を追い込んでいく。

 

諦めが悪いと言われればそれまでだが、わたしはこういうとき目指すゴールがすでに達成されているイメージと、はっきりと「私はこれを達成できる」と自覚するようにしている。「わたしは今ゴールに近づいている。見えなくても私はゴールを達成するとわかっている」と作業しながら意識にあげる。確信しながら動くとミスしてもらしくないな、修正しようで済む。

 

それでも疲れて書きたくない日はあるわけで、書くか書かないかの選択は常に現れる。

わたしの場合、思うように書けなくても書きたいとおもった自分を大切にしたいから書いていることもある。他人には優しくするのに自分には意地悪なのはなにか嫌だ。やりたい!っていってたのに、「はいはいはい忙しいから疲れてるからまた今度ねー」と何度も親にされてすねる子供と同じである。

 

他人との約束を果たすように、自分との約束を果たしたいと思う。

 

 

 

落ち着いて呼吸のできる場所

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これを読んでいるあなたには落ち着いて呼吸ができる場所があるだろうか。

 

何を唐突に、と言われるかもしれないが私は各地に暮らしてきて落ち着いて呼吸ができる場所はあるのだと思っている。落ち着いて呼吸できる場所というのは自分にとっての安全圏である。自分にとって息苦しさを感じる場所にいると本当につらい。

 

私にとって落ち着ける場所は一つは自宅のキッチンである。だいたい椅子をおいてゆっくりと本をめくったり、筋トレやストレッチをしている。あの狭さがちょうど良い。

もう一つは宮城県にいくとどういうわけか波長が合い、落ち着いて呼吸ができる。父方の先祖が宮城と岩手の境あたりに暮らしていたそうだからそういう理由もあるかもしれない。顔のつくりがやたら似ているのを感じる。あと会話のタイミングがやたら合うのでスムーズである。

 

どこでもいいから落ち着いて呼吸できる場所はもつ必要があると思っている。私は子供の頃押し入れの下にもぐったり机の下にもぐったりしてよく叱られたが、そこが安心して呼吸ができる場所だった。外で遊べと言われるとツツジの中の秘密基地に大概いたし、その付近で昼寝さえしていた。誰も来ないから静かだったのだ。

 

上橋菜穂子さんのエッセイを読んだ時に、ああ自分みたいなタイプの人が他にもいるんだなと深く共感した。なので彼女の小説を読むとやはり同様に落ち着いて呼吸できる感じがある。

 

そういう場所やものは持っておくと、いざパニックをおこしても落ち着きやすい。元の流れに戻れる感じがする。私はどこに行ってもマイペースだと言われるが、それは自分なりに落ち着ける場所をつくるようにしているからなのかもしれない。私は外的なストレスに弱く、そうしないとすぐに体調を崩すのだ。私の知り合いに小さな人形を常に持ち歩く人がいたが、その人いわく自宅での環境に近づけることであがらないようにしているらしい。なるほどな、と思った。

 

落ち着いて呼吸ができる場所やモノはある。ないなら今からでも作ったほうが楽になると私は思う。

 

Photo by bluesilence

 

 

またあした

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「また明日ね」という言葉を長らく聞いていない気がする。ふと、そう思ったのは小学生の帰宅時間時に通りがかってその言葉を聞いたからだ。「おーい!」男の子が通りの向こうの女の子に手を振る。「今日俺用事あるからまた明日なー!」「また明日ーっ!」女の子が元気よく返す。ああ、そういうのいいなと微笑んだ。

 

大人になると驚くほど挨拶をしない。店に伺うとき、「ごめんください」とよくいったものだが今はなかなか聞かない。「ごゆっくりしていってください」も「ありがとうございます」も自然といえるのはかなりの年長者かよくできた大人たちである。ホテルですら最近はラフだから挨拶を忘れてきてきている気がする。私は引きこもりがちだから、尚更だ。出かけた先で「どうも。こんにちは。」とすれ違いざまに会釈された日にはその佇まいにハッとするくらいである。

 

「また明日」と大人どうしでいうのをあまり聞かないのは大人になるといつ死ぬかわからないというのもあるんだと思う。それでも「また明日」が明日への希望に繋がることもあるかもしれない。「また来年も」とはいうが、「また明日」と言わない不思議である。

 

「また明日」と講師をやっていたときに翌日も参加するメンバーに声をかけたら「ええ、また明日があるのね。うれしいわ。」と微笑まれたことがある。「また明日」「じゃあな、また明日もよろしく。」よく知るいつもの面子がそう言って帰って言った。あの頃属していたメンバーが仲が良かったのは挨拶があったからなんだと思う。「また明日」「また来週」という言葉を交わすことで親近感が生まれていたのだろう。

 

私たちは守れない約束を言葉にしない。

引っ越す時に「また明日」とはいわないし、死を間近にした人もやはり気軽には言わないだろう。言霊を大切にする国に生まれた私たちは言葉の大切さをよく知っている。だからこそ「また明日」と交わせる子供たちを微笑ましく見ることができるのだと私は思う。

 

また明日の私のブログを誰かが心待ちにしてくれているだろうか?いなくても明日の私に向かって希望をこめて私は「また明日」と言おう。

 

Photo by maroke

https://www.photo-ac.com/main/detail/28199081&title=%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%BB%E3%83%AB

 

寂しさはいつか消える

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Googleフォトを整理した。

長年使っているとどうしても写真は溜まるものだ。あとスクリーンショットや推しの写真なんかみつけると保存しがちである。

一覧でみながら選択削除していく。昨年夏に亡くなったインコの写真や動画がたくさんでてきた。

 

昨年亡くなった青いインコは私と12年の付き合いだった。人見知りインコだったが、私との相性は非常によく、またインコらしくなくわりと静かであり、人の言葉をよく理解していた。今の家に越した時もうだいぶ年であり、パートナーは後にくるペットロスに耐えられないだろうと言って新しいインコを飼った。新しくきた白いインコは性格が真逆で、すぐ些細なことで噛んだり騒いだり餌を食べなかったりする。先住インコは面倒見がよく、死ぬ前日までそれは変わらなかった。

 

青いインコが亡くなった日、白いインコは私をずっとみていた。亡骸を埋葬し、ゲージを片付ける様をずっと。いつもなら騒ぐのにその日は餌も食べずにずっと私をみていた。青いインコは生活の一部だった。亡くなる前夜家族みんなの夢の中にでてきたくらいだ。パートナーは私を連れてペットショップにいき、その日のうちに新しいインコを飼った。臆病な黄色いインコのヒナだ。私たちは悲しむ暇もなく新しいインコの世話をし、白いインコは先輩になって面倒をみはじめた。

 

半年経っても亡くなった青いインコの話題はたびたびあがる。あいつ全然夢枕にたたないけど、まだ食べてるんだよきっとだとか、なにもきていないのにインコたちが窓の外に向かっておしゃべりするときは様子を見に来たんだな、とか。どこにいっても、なにをしていても私たちの生活の中にまだ青いインコはいる。それでも、埋葬した地に新たな草が生えて、風が変わるのを感じるたびにもういないのだと思い知らされて時々寂しくなる。

 

あんなにわがままで懐かなかった白いインコはそれから少しずつマイルドになって、相変わらず噛むけど甘えるようになった。そうして白いインコが大好きなバナナを一緒に並んで食べながら、外を見る。黄色いインコは臆病さがぬけてマイペースなインコになってきた。

 

Googleフォトには青いインコが頭から餌箱につっこむ写真や動画が並んでいた。それをみた瞬間笑ってしまった。たしかに体はもうないが、青いインコは記録の中でまだ生きている。そうして何度でも笑わせてくれる。

 

寂しさはいつか消えるのだと私は思った。

 

ペットロスは悲しいが、いつまでも泣くのはきっと違う。私は新しいインコの世話で泣く暇もなかったが、寂しさは常にあった。その寂しさは他では埋められなかった。ずっとそうなのだと思っていたけれど、時が経つにつれごく自然と薄れていくのを感じている。私もなくなったら少しずつこうして忘れられていくのだろう。それは喜ばしいことだ。まだ生きている人たちには寂しさより願わくば喜びで満たされていてほしいと思う。

 

だから今を生きよう。そうしてたくさん笑顔になれることをしよう。なんでもない毎日を意識的に過ごそう。辛い今も時間がたてば思い出に変わる。さびしいことや辛いことほど忘れるのは難しいけれど、意識しなければ次第に薄れていくのだと私は思う。

 

Photo by bluesilence

 

スクラッチアートを全部削るとどうなるか試してみた

前から気になっていたダイソーのスクラッチアートをついに買ってしまった。やりたいと思いつつ、手先が不器用なのと100円でいかがなものか?…という気持ちが強かった。

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種類はいくつかあるのだけど今回選んだのはこちら。

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裏面に削り方が書いてある。ふむふむ。

では早速開封しよう。

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ん!?

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白い紙を開くとシートが数枚出てくる。絵柄が違うので何回か楽しめそうだ。

えーっと削るペン…、、、

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そこかよ!

というか、わりばしっぽいなあ。

ぶっちゃけ割り箸でも削れるのではという気がしてきた。

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今回ずーっと気になっていたのは、クラッチアートの線関係なく全部削ったらどうなるかということだ。なのでガンガン削っていく

ちまちま削ること一時間。

このスクラッチアート、雑な人の方が向いてる気がしてきた。

そして最終的にできたものがこちら。

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線、関係なかった。しかも全部削った方が出てくる絵柄(背景)ありまくりやん。

 

…うん、ビフォーアフターすごすぎ。

 

ちなみにスクラッチアート、黒い削りかすがでるのでウェットティッシュがあると片付け楽です。紙の質については大変丈夫で、筆圧の強い私でも破れることはなかったので子供にやらせてもokだと思います。ペンも割り箸みたいなものだしね。

 

クラッチアートを初めてやったけど、思いの外時間を食うのと綺麗に仕上げたくなるので、やってみたい方はぜひ。

私は終わった後間違えてペンをゴミ箱にすててしまい、慌てて回収しました。今度は割り箸や10円で削ってみようかな。

 

今回の結論:全部削っても全く問題なし。

 

自分なりのルールを決める

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しばらく休日モードだったので、通常モードに戻るのになかなかエンジンがかからないことがある。そういうときにそのまま動くと忘れ物をしたり、やるべきことを忘れたり、脱線しがちなので私は通常/休日関係なく今日やりたいことを前日の夜もしくは朝起きてすぐに書き出している。

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こんな感じに私はiPhoneユーザーなので、メモで作って終わったらチェックにしている。リマインダーでもいいのだけど個人的にはメモのほうが色々貼り付けできるので楽である。

 

私はつい張り切り過ぎる癖があるので10レベルのうちmaxでも6くらいで動けるように組む。それ以上やると体調を崩しやすいからだ。

家事のような毎日やることをこのメモに書くこともある。例えば体調の悪い日、最低でもやる必要のあることは書き出す。そうすることで精神的にやることはやった、になるし、失敗しても次回の参考になるからだ。

 

この今日やりたいことリストはふせんでもできる。毎朝書き出して、よく目にするところに貼る。携帯や冷蔵庫、リビング、パソコン、テレビモニターでもいい。そうしておわったら線を引いていくその日が終わったらやっていないことがあってもゴミ箱に捨てるそうすることで毎日リセットする。以前はこのやり方をしていたのだけど私の場合タスクが増えすぎたので、やることリストではなくやりたいこと(今日自分が選ぶことリスト)に変えてスマホで管理するようにした。ゲーマーなのでついついやりすぎることを防ぐ目的もある。

 

私はこのメモを習慣にしているおかげで自分のやりたいこと、選ぶことが意識的にわかるようになってきた。特に最近はエンタメが充実しているので怠惰になりがちである。ブログも楽に流されやすい。毎日書き出して、意識的に行動し、一日一日を大切にするというのはシンプルだが非常に効果があると感じている。

 

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」

 

illust by bluesilence(stable diffusion)

素直でいよう

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疲れたから休みます、といった割には一日寝ただけで部屋はとっちらかり、冷蔵庫は空になったので起きて買い出し、掃除、料理をしてあすけんの摂取カロリーを守り、duolingoをしていたら体に力が入らなくなって熱をぶりかえした。「体調が悪いならコーラとなにか食べたいもの買ってきてあげるよ。」と家族にいわれ、「今摂取カロリー守って食べてるから今日はもうカロリーオーバーになる」とこたえたら「体調悪い時にそうやってがんばるからへとへとなになるんだよ。ネガティヴになってるし。早くねなよ。コーラもお菓子も明日買ってきてあげるから。」といわれてしまった。南無三。

 

体の健康より心の健康を優先してきた私が体にふりまわされているとは本当に滑稽である。今日はカフェラテもコーラも飲もう。キャベツ太郎とできたらたこやきも食べよう。

 

好きなことをやっている人はノーストレスである。本当に好きなこと、夢中になれることをやっている時幸せでしかない。私はここ数年食べたいものを食べたい時に食べる、やりたいことをやる、その分運動するを習慣にしていたのだけれどそれをやめた(というより生活環境の変化でできなくなった)瞬間から悪化して今に至るので今回の実験は失敗だったな、と思っている。摂取カロリーも大事だけど食べたら動くくらいで私にはちょうどいいのだ。よく発熱はするけど精神的には常に元気なわけだし。そもそも私は肥満ではない。

 

年配の方が年をとってきたからと介護施設にはいったら一気に認知症がすすんだと聞くが、私の母方の祖父母もそうであった。それと同じことが今私にも起こっている。やりにくくなってきたならそのまま調整しながらでもつづければよいのに、しっかり休もうと休んだら何もできなくなってしまった感じだ。使わなくなった家電製品を放置していたら本当に使えなくなるように。

 

家トレとジムでのトレーニングは全く違う。家トレはできる範囲でしかやらないが、ジムでは負荷をかけて追い込む。前回上がらなかったバーがあがるのは強烈な快感である。

読書もそうだ。私は借りた本はその場で読み切れば次から次へといけるが、たらたら読んでいたらいつまでも読めない。なので私は長年買う派である。買ったらもったいないから読むし厳選する。

 

やっぱりやりたいことをやるが最強なんだよなあと思う。それに気がついたのは心理学の分野から離れてからずっと避けていたいた人のXをみたからで、その人は変わらずのスタンスで、私はその人の発言に変わらず深く共感できたからである。そうしてなぜかつて自分がカウンセラーを目指したのか、そのゴールはどこにあったのかをありありと思い出したのだ。結局私は挫折し、その道を離れてぐずぐずとやっていたのであるが、生きながら納得できない人生を送っている気がずっとしていたのは、まだそのゴールが私の中に燻っていたからだと気がついた。

 

『あなたは楽な道にいこうとしても、結局厳しく険しい道に戻ってくる。それはあなたが自分と同じ理想をもつ人だからだ。だから覚悟を決めて太く短く生きなさい。たとえ途中で力尽きても。』

 

とはかつての私の師の言葉であるが、聞いた当初嫌な言葉だなと思って「いやですよ。私には大切な人もいますし、長くゆるく生きたいです。」と笑いながら返したのだった。今思うと師は先で私が挫折することも、それで終わらないこともわかっていたのだと思う。わかっていて、最大の激励だったのだと思う。あなたを信じてるよ、と言えばいいのに私と同じで不器用な人だった。でも言葉は今も生きていて、「そうだね、私はなんだかんだで理想をもつ人だしこんなところで終わらない。終わらせない。」と熱く心は燃えている。それこそが私の活動力の源だとはっきり意識に上がって目の前がみえている。

 

だから素直でいよう。やりたいことをやろう。理想のために行動しよう。そのために食べたいものをしっかり食べて、しっかり学んで、しっかり寝よう。自分の心を燃やすものを自分で消してはいけない。消えたならまたつけよう。すぐにつかなくても何度だって挑戦しよう。それこそが生きる醍醐味なのだと私は思う。人生は実験だ。

 

illust by bluesilence