静寂の力

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誰かと話す時、なかなか話しづらい時や間が開いた時、私はそれを無理して埋めない。ゆっくり落ち着いて様子を見て相手が静かにして欲しそうだったら、目があったら穏やかに微笑するにとどめる。そして一日何も話さなくても目を見て一言挨拶はするようにしている。

 

私はカウンセリングの手法を学んでいた際に、あまりに相槌を打たず、共感もせず、話も進めなかったので講師から常にその逆をできるようになるよう指摘された。そうしてできなさすぎて詰んだ。

丸二日間のマンツーマン集中カウンセリング講座に申し込んだ時、丸一日かけてできずに説教されて終わった。それでもなにも習得せずに帰るのは嫌だったから二日目も行った。講師は朝から超絶不機嫌であった。そりゃそうだ。長い沈黙のあと講師はため息をついて「もう今から私が適当に話すから自分なりにやってみな」と言われて、「ため息ついてなにかあったんですか?」からはじめて、相手が黙っても流れに身を任せた。するとポツポツと相手は話し始めた。はじめはかなり不機嫌に(当たり前だが前日私を一日説教したせいである)、それからだんだんと日々抱えているストレスを話し始めた。気がつくと二時間経っていた。「そこまで。」と講師が手をあげてようやく終わった時、気づけばコアの問題まで触れて解決していた。

「あなたは基礎通りにやるより雑談がうまいからそこから深いところまではいっていくカウンセリング方法が合ってる。かなり型破りだけど。」

講師は言った。「腹立つけど、雑談しながら気がついたらペラペラ喋ってしまうんだよなぁ。意図的にしてるなら天才なんだけど。しかもこっちが黙ってもにこにこもしないで話はきちんと聞いてる。こっちは聞いてもらえたっていう気持ちになる。普段からこうなの?」

「そうです」と私はこたえた。パートナーが話す時は話すが、話さない時は別に不機嫌でないのでその癖がついていたのである。

まあ結局共感力なさすぎてカウンセラーは諦めたけど、今でも気がつくと人の相談によくのっている。(というか相手が勝手に話すことが多い)

 

話さないことを悪く考えないで、静寂をただ楽しむようにするのは私の得意なことだ。むしろ話さない方が多くのことを共有出来ることもある。

 

だから私は無理して話しかけもしないし、無視もしない。輪に入ってきたそうな人には惜しみなく声をかけるし、静かにしておいて欲しい人にはそっとしておく。盛り上がっていて自分も入ったらよさそうなときは一緒に盛り上がる。

だから私は外交的でもあり内向的でもある。いずれにせよ静寂や拒絶を恐れない。

 

それは私のスキルなのだと思う。

私にはこのやり方が合っている、というだけなのだ。それでいいのだと思う。

静かに観察して、間を楽しんで、流れるように話をする。無理して繋がない。黙って過ごすだけでも多くのことを共有しているのだから。

 

Photo by  安西成文

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