好きな理由なんて単純だと思った話

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ふと自分が好きなことってなんだろうなと考えて、読書、色々調べること、ゲーム、Duolingoなど頭の中に浮かべてみたのだけれど、自分のことしか考えてないことのほうが損得勘定抜きにはまっているなと気が付いた。

 

というのも、例えば私の場合読書を続ける理由は「したら褒められるから」なのである。これは長年の経験による無意識によるもので、読書=褒められる=自己肯定感UPという構図になっているのである。少し考えてみてほしいが大人になっても小説以外の本をもくもくと読む人がいたらどんな風にみるだろうか?おそらく大半の人はまじめな人だな、とか読書家だとか勉強家だとみるだろう。つまりそういうことだ。これは私のとって大きなメリットになる。

 

もうひとつのいろいろ調べることもわからないことはすぐ調べないと叱られる、自分が損をする、という経験からきている自己否定に直結するものなので、できなければ責められる、とどこかで思っている。(まあ実際そんなこともないのだと最近気が付いたが。)なのでこちらも損得勘定で動いていると言っていい。

 

AIでかわいい女の子を生成したとき、そこには損得勘定はなかった。

単に「やってみたい!」からの即実行だったし、失敗も含めてげらげら笑っていた。

ゲームやDuolingoだってそうだ。多分止められたってこっそりやっているだろう。

なぜならやりたいのほうが先に来るから。もちろんゲームやDuolingoをやったところでお金が増えるわけではない。むしろ本気でのめりこめばお金を払うことになるわけで、時間も考えればかなりの損なのかもしれない。ちなみにDuolingoを始めたのは、あのアイコンが妙に気に入ったのと、ゲーム感覚で学べる事、あわよくば推しの話していることが少しでもわかればな~という下心からである。(私の推しはナタリー・シュトゥッツマンというフランス人指揮者である。)

 

つまりだ。好きな理由なんて単純で自分のことしか考えていないというだけのことである。うすうすとは気が付いていたが、今朝コンビニに向かう途中にストン、と腑におちてしまった。他人の目を気にしてどうする。今のまま誰かに合わせて現状維持して、小さなコミュニティの中で生き続けてどうする。いつ死ぬかもわからないのにこのまま死んだら多分私は後悔する。

 

自分に嘘をつくのもうんざりだし、だれかれ構わずすぐさわやかに挨拶したり、人助けするのはもうやめようと思った。なぜなら他人の目を気にして本音とは真逆のことを選択する自分が大嫌いであるからである。だいたい本当に助けたい時は損得勘定抜きで動いている。

 

他人の意見や視線を気にするのは生存戦略としては正しいかもしれないが、明日今のまま死ぬよ、と言われたらめちゃくちゃ罵詈雑言をはいて呪いながら死んでいきそうなのでもっとわがままに生きようと思う。

 

そんなわけで私は微熱があるので今日のブログはおしまい。