それって必要?

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効率的であろう!

 

そうきめたのは、自力でなにもかもやることが不可能だと受け入れざるを得なくなったからだ。それまでの私ときたら、とにかく自分でできることは自分でやる!というタイプだった。家族も家のことはさっぱり、という性格だからそうせざるをえなかった。不器用ながら家のこともやって、仕事も勉強もがんばって、体を維持するのに週に5回はジムに行って筋トレ中心の生活をしていた。それがよくなかった。

 

「これからは、なるべく無理をしないでストレスを極力ためないように。少しでもおかしいと思ったらすぐに病院にきてください。悪化したら命にかかわりますよ。」

 

医者からそういわれた日、「ああ、今の自分でどうこうできないんだな。」と深く実感した。痛み止めをだしてくださいと告げた私に一過性の治療はできません、と医者ははっきりと言った。しっかりと治療していきましょう、と。朝起きた瞬間、あ、これは放置したらいけない痛みだと直感して病院に駆け込んだのが半年前。幸い定期的な健診と、服薬ですむとほっとしている私に医者は上記の言葉を告げた。

私は医療関係者ではないけども、過去に二度死にかけたことがあるからある程度本当にまずいのか、そうでないのかは勘が働く方だ。検査の結果、わざわざ向き合って医者が話をするとき声のトーンや抑揚、表情からどの程度なのかくらいは理解できる。

「30%ね。今から悪化する確率。あなた、随分と落ち着いているけども低くはないからね。これだけ症状出てるんだから。」これは甘く見たらまずいやつだ、と思った。

 

帰宅してぼうっとする。たしかにこの一年は疲れがとれなかった。

休んでも、料理のバランスを考えて栄養摂取しても、持久力アップのトレーニングをしても思うような結果はでなかった。加齢に伴うものだろうなとなんとなくとらえていた。

 

なんにせよ、医者が予見したとおりに次々といろんな症状が出てきた。

薬をのんでいればある程度緩和はされるけども、体力はガクンと落ちた。

好きだった音楽も読書も疲れてしまって楽しめなくなった。

新しいことを学ぶことが好きな私にとってこれはつらいことだ。

目で文章を追うことが疲れるのならyoutubeやオーディオブックはどうかと試したけども、少しはましというレベルにすぎなかった。

すぐに疲れて回復が遅いから以前のように筋トレができないことも余計にストレスになった。ストレスがたまるとすぐに症状は体に出る。だんだんと虚無になってくる中、置かれている状況に抵抗しない自分に腹が立ってきた。

 

唐突に思い切って毎食作ることをやめた。

レシピを考えることをやめてレシピサイトに頼ることにした。

日持ちする作り置きおかずを一気に作って、家族のごはんは各自バイキング形式にした。

選べるおかずを一覧にして、テンプレート化し、lineで一括送信をする。

納豆やとうふ、キムチなども選べるおかずのなかにいれておく。

家族は食べたいものを選んで私にlineで返信し、私は皿にのせて提供するだけにした。

 

家族のだれからも文句は出なかった(むしろ感謝された)ことに味をしめた私は、次に定期的にやっていた掃除を簡略化することにした。

掃除機をやめてクイックルワイパーにし、キッチンは最後に泡ハイターだけにした。庭の手入れをやめた。前の家主が植えた薔薇の枝をバッサリ切り落とし、色々植っていた球根を掘り起こして雑草以外生えてこないようにした。今の家は公道に面していて、時折ゴミを捨てられることがストレスだったが、なぜか毎週の掃除をやめたらゴミを捨てられることがパタリとなくなった。唯一風呂掃除だけはいまだ簡略化できていないが、ジム利用しているため掃除の回数はそれほど多くない。

 

ジムもストレッチ中心に切り替えた。体重が落ちにくいのなら、無理して減量することも体力をつけることもない。持久力は前ほどないけども、柔軟性と体の仕組みについての知識が身についた。体を動かしたり、ジムに通うのは今でも好きだ。

 

ついでにこまめにつけていた家計簿もやめた。

つけようがつけまいが、月に出ていく金額は大体把握していたし、最近はなにもかもが高いから気にするだけ無駄だと思った。

 

推しをリアルタイムで応援するのをやめた。

私の好きなナタリー・シュトゥッツマンは指揮者だから、交響曲がフルで動画に上がっていることもある。けども、これを視聴するのは体力と時間が必要になる。代わりに短い曲をspotifyでプレイリストにいれてなんとなくバックで流すことにした。SNSのチェックをやめて、動画へのコメントやいいねもやめた。リアルタイムでの情報には疎くなったけれど、変わらず彼女の指揮する演奏は驚きと元気を私に与えてくれる。

 

友人や家族の都合に合わせることもやめた。遅刻や日時変更について寛容的でいたが、それもやめた。具体的に許容できないことはできないと伝え、自分の都合と合わないなら無理して会おうとすることもやめた。長年付き合いのある人に対しては抵抗があったけれども、かえって気楽になった。

 

肉も無理して食べるのをやめた。もともとどちらかといえば菜食主義だし、スーパーに行くたびに頭痛と吐き気がしていた。今だって精肉のコーナーの前を通るのは苦手だ。

鮮魚も同じ。代わりに週に3日はゆで卵を朝に二つつくって、なるべくその日のうちに食べきることにした。家族用のは調理済みのものを購入して湯せんだけで食べられるものにし、あとは希望によってソーセージを買い足すだけにしている。ゆで卵もあまり好きではないけれども、いろいろ試した中でなにもつけないでたべるゆで卵が自分には一番合っているとわかった。

 

無理して学んだり、本を読もうとすることをやめた。

これに関しては最初はものすごく抵抗があった。

特に読書についてはものごころついてからの習慣のようになっていたため、

本を読まない生活など考えられなかった。

ところが、読もうとしても頭に入ってこない、目で追うことが疲れるから余計読めなくなる。読み始めては途中で挫折を一年と3カ月ほどつづけてきたけれども、どうしたって無理だと受け入れた。

結論から言えば読書や自発的な学習をやめたからといって知識欲がなくなったり、好奇心が薄れたりはしなかった。

何にも知らないんだな、と言われても「そうなんです。教えてください。」といえば大概の人は親切に教えてくれることもわかった。

翻訳機能を使えば簡単に日本語で読めるし、動画も探すことさえできれば無駄な音声や前置きがないものもあることがわかった。なんなら動画と同じ内容をブログ化してくれているひともいる。

 

効率化するなかでわかったことがある。私は今まで自分でハードモードにしていたことだ。漫画化されたわかりやすい参考書があるのに、それを選ばないで教科書を読もうとする受験勉強のように、あるいはセルフレジにしたのに客が文句をいうからと有人レジにわざわざ戻してしまったスーパーのように。

それで思うような結果が得られず疲弊するなんてナンセンスだ。

もちろんそのやり方で臨む結果が得られるのならそれはそれでよいと思う。

今の私にはそんな体力も気力もない。私にできることは限られたなかで力を温存し、配分することだけだ。そうでなくても人生には予想もできないことがしばしば起こりうる。時間には限りがある。

 

こうしてできた空白時間で私は本当にやりたいことや、今の自分にできることを考え始めた。やりたいことはなかなかでてこなかったけれど、体が自然と動くことはやってみることにした。行きたい場所はいろいろあるけれども、そもそも旅行自体あまりやりたいことではなかったと再認識した。旅行より博物館のほうが断然面白い。体力も気力も知識も実績もないならできることなんてなにもない、と投げやりになっていた自分になにもやらなくなったからといって自分の価値がなくなるわけじゃない、そもそもはじめはゼロだったじゃないか、と言い聞かせた。すねるのもええかげんにせえよ、と。

あきらめたら気ままに文章でも書くか、という気分になった。

こうして今に至る。

 

無駄なものを背負い込み過ぎていたんだと思う。ゲームのようにクリアが難しければ、難易度を下げればよかったのだ。

 

だからもし、今の私と似たような人がいたらまずは必要に応じて病院に行って治療を受け、なにもかも自分でやろうとしないで自分にとって楽になる効率化を全力でおすすめしたい。自分でできることをやめてみてほしい。なぜ、そのやり方に固執していたのかに気づいてばかばかしくなることだろう。

そうしてできた空白時間を楽しんでほしい。

生きている時間は有限なのだから。

 

お題「思い切ってやめてみた事」