じここうていかん時々ていこう

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自己肯定感ってなんだろうなあって考えていた。

すっごく暇なときにこういう割とどうでもよい言葉について考えるのは好きだ。

「自己」を「肯定する」「感じ」。。

というか自己を肯定する感じ(もしくは感情)ってなんやねん。

よくわからないので辞書で引いてみる。

 

自分のあり方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する語。 自己否定の感情と対をなす感情とされる。by実用日本語辞典

自己の、あり方を、積極的に、評価できる感情だあああ?!!

なんじゃそりゃ。

常々思っていたんだけど、自分を肯定するとか否定するとかそういう感情誰にだってあるよね、と。絶好調もしくは幸せな感情を感じているときは(たとえばすごく好きなものを食べた!とか頑張って志望校に入学できた!とか)肯定どころかうぉぉ、今生きてる!!!って実感していると思う。

逆に自己否定することって誰にだってあるはず。

たとえば関係ないのに理不尽なクレームをいわれた、とか変えることのできない外見や過去のことについて馬鹿にされたりだとか、もっといえばお金がないなんて状況は自己否定しやすいんじゃないだろうか。(ああ、やっちゃった・・)的な。

 

で、それがなんでそんなに大切なのか私には理解できない

いや、ね。特に子供が健全な大人に成長するためには「自己肯定感」なるものが必要だっていうのはわかるんです。どう考えたってネガティブになんでもかんでも否定する人になるよりポジティブな方がマシだってのは。

けど、同時に「自己否定」だって私は必要だと思う。

調子に乗りすぎてるとき(例えば金銭的余裕があるときにあとのこと考えないで豪遊しすぎたり、立場を利用していっちゃいけないことを言ったり)、「おい!待てよ。そりゃやりすぎ。まずいでしょ!」「ちょっ、こういう選択は最悪でしょ。」っていうブレーキは必要なわけで、「だめだめだめだめ」っていうのが自分の中にないとまずいときはある。ブレーキの利かない人間なんて想像しただけで恐ろしいし、やっちゃまずいことして平然としているのもそれはそれで怖い。

 

というかどっちもないと逆にまずくないか?

 

バランスが大切、もっと自分を大切にしましょうって言われるけれど、皆それぞれその時に最善(もしくはこうだと思う選択)をしているわけで、その結果自己肯定感が強まったり弱まったりしながら毎日を生きているのが現状で、そこに自分を大切にしましょうとか言われても「自分が最善だと思ってることを選択してるわい!」としか返しようがないというか。肯定も否定もどちらも存在していると思う。(だって選択の結果によってはハッピーもしくは「うわ、最悪」になるのだから)

 

それよりもやるなら「目の前の出来事」と「感情」を切り離して考える訓練だとか、いつも批判的に考える癖があるなら逆に褒めちぎる考え方をしてみるだとか、もっというと環境を変えると同じことが起こるのかっていう実験だとか、お好きならそんなことを延々と考えている哲学者の本はわんさかあるので読んでみるとか、そんなことのほうがよほど有意義だと思う。

 

ちなみに私はとりあえずポジティブすぎるときもネガティブすぎるときもコーヒーを飲むようにしている。リセマラをかけるように一回自分がその時考えてることをリセットする。そうすると冷静になれることが多い。(だめなときはもうあきらめて食べて寝る)

 

今、自己否定でいっぱいな人も明日には自己肯定感にあふれて笑っているのかもしれない。自己否定ばっかりしている人は今、それが必要な選択で、自己肯定ばっかりしているひとは、やっぱり今、それが必要なんだろう。でも飽きたら(飽きなくてももういいやって思ったら)好きなだけ自己肯定してもいいし、自己否定してもいいんじゃないかなと思う。感情なんてあやふやで、だから、好きにすればいいのだ。少なくとも育てるようなものじゃないと私は思う。

 

もっと気楽にいこう。