「お前には無理だ」
この言葉を私はこれまで何度言われてきたことだろう。
言われるたびに打ちのめされて、自分でもできないと思い込んできた。
そうではないと教えてくれたのは数々の本であり、また人生の中で何度か出会うメンターのおかげであったと思う。そのメンターは時に祖母であり、時に学校の教師であり、時に苦労して起業した経営者であり、時にパートナーである。
彼らに出会うことがなければ私はきっと生きることすら挫折していたであろう。
どうしても推しのアルバムがほしいので単発バイトをしてみることにしました、と先日のバイトで書いたのだが、決めた瞬間から脳の現状維持システムのおかげで抵抗がすごい。悪夢は見るわ、それまでなんともなかったのに急に風邪気味にはなるわ、予定がないと言っていた家族に予定が入るわで心理的抵抗がまあすごい。
でもまあ、すでに決定事項である。何が何でも私は行く。
それまでどおりにはいかないので、前日はやく寝て、朝起きて、鳥の世話と朝ごはんを食べて弁当を作り、7時半までには完了しているようにする。夕飯も決めておいて時間通りに動く。意外とできるものである。もともと朝には強い。
「無理」という言葉を極力使わないように、とメンターに言われたことがある。
特にやったことがないことに対してこの言葉を使うのは自らチャンスをつぶすようなものだと。もちろん、身体的な理由だったり、どうしても嫌悪してしまうものだったり、法律的にアウトであることは断っていいけれど、それには「しません」と言えばいい。
「あなたが無理だと言っているうちはできることもできないだろうね。」
その通りだと私も今では思う。
自らにかける言葉は強烈な暗示だ。
同時に他人から言われた言葉をそのまま受け入れてしまうとそれも暗示になる。
それがいいことであれ、悪いことであれ。
私自身、信頼していたメンターに「お前は人の迷惑になることしかしない。お前は何をやっても無理だ。」と怒り任せに言われて別れて以来、ずっとその言葉で自らを呪った。メンターは病気であったし、それは仕方のないことだったのだが事実ではないことをすり替えられた上にその言葉はあまりにも私に強烈だった。
別れて5年ほどになるが、しばらくの間「お前には無理だ」と冗談まじりに誰かが言うのを聞くたびに反応し、単純なことさえ本当にできなくなってしまった。そうして自信を無くし、それまでの無理もたたって病気になった。
でもそれはその人の言葉であって、それを受け入れたのは私自身だ。
それまでにいろんなつらい経験があって、自分には無理だと思っていたところはある。
それを隠そうと必死だった。それを明るみに出されただけだ。
できるもできないも想像である。
できる、と思ったらやってみる。
やってみたい、と思ったらやってみたらいい。
自分で自分を呪わなくてもいい。
ネガティブなことを言われたら「うける」「まあ私の天才ぶりが分かってないなー」と思うか「おのれ・・今に見ておれ・・!」くらいでちょうどいい。
私の息子が小学生のころ、叱るたびに「まあまあ、まあまあ、マーマレード」とへらへら笑うので私も叱るのがばかばかしくなったものだが、多分それくらいでちょうどいい。
自分がしたことのないことはすべて可能性の域にあるわけだし、それすら馬鹿にしてくる人はただの邪魔である。そんなことしらんがな、でよろしい。
誰もが何かを始めるときは0からはじめる。
ヒトの得意不得手はそれぞれである。
自分を向上させるのも、自分をダメにするのも、自分次第だと私は思う。
Photo by Techくん
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