何もかもが足りない、と感じることがある。
逆に何もかもが足りているのに不足している、と感じることがある。
どちらも「枯渇感」を感じているのだと私は思う。
探しものをするとき「ない、ない」といって探すのと「ある、ある」と言って探すのでは見つかる率が違う。試しにやってみてほしいと思う。私は基本的になくしものをしてもすぐに見つけることが多い。それがなかであれ、そとであれ、「ある、わたしのもとに戻ってくる」と思っていると不思議と見つかるのだ。
逆の話もしよう。私は転職するのに仕事の面接をうけまくっていた。その時の私は「私は能力はあるが社会に受け入れられない人間だ。私は不足している」と強く考えていた。結果どうなったか。書類選考は全て通ったが、最終面接で全ておちた。笑えないことに短時間のバイトの面接にすら、だ。面接に行くまでは好感的に接してくれていたところですらいくと辛い目にあった。身だしなみを整えようが関係がなかった。謎のマウントをとられたこともある。家族にも不思議がられたくらいだ。
断られ、余計に「枯渇感」を感じるとさらにそれを引き寄せる。
今から8年くらい前に私はいろんな人に積極的に会いに行っては話を聞いた。看護師、弁護士、保険屋、教師、起業家、整体師、自衛隊、聖職者、僧侶、脳機能学者、そして元犯罪者。
苦境からどうやって立ち直ってきたのか知りたかったのだ。正確に言えばどんなことを考えたのか、ということを知りたかった。
ある人はいった。必要な資質は全て自分のなかにあると考えよ。
ある人はいった。目標の設定は家の建設によく似ている。設計図なしに建てる大工はいない。
必要なものは全てそろっているという前提でイメージする。
ある人はいった。冷静になって、周りをよく見渡し、目指すゴールを静かに見つめること。
ある人はいった。自分が得たいものではなく、目の前の相手の気持ちに寄り添おうとすること。素直でいること。
ある人はいった。1人ではないと確信を持つこと。感謝と利他。
ある人はいった。満たす対象の多いゴールを設定せよ。
言葉はそれぞれ違うが共通点は充足と利他だ。
これは私も思うところがある。自分のためにがんばるときと誰かのために頑張るときではパワーが違う。そして充足感は充足を呼び寄せる。
私が「枯渇感」「充足感」という言葉を使うのは物理的なあるなしを必要としないからだ。
自分が幸せを心から感じる時、さらに幸せを感じる出来事があった経験はないだろうか。
逆ならもっと身近かもしれない。
不幸があって打ちひしがられるとさらに不幸が重なる。
私は誰かの悩みを聞いたり、相談にのるとき、目の前の相手が解決している姿をよくイメージする。こんな会社につとめたい、こんな生活をしたい、この難しい課題を一発でクリアしたい。
その人が実際に望む姿になっているところを想像しながら聞く。これが結構面白いことに9割くらいの形で実現するから面白い。
難しいのはお金が欲しいというもので、お金の用途が本人の幸せと結びつかないような時だ。
お金そのものが好きな人はいるが、だいたいは使用目的があるはずだ。老後の生活のためという人がいるが、そもそも歳をとるまで生きる保障はだれにもない。もっといえば日本であれば年金はでるのだ。生活保護もある。シルバー人材もある。
仕事やお金があっても幸せではない、と枯渇感を感じている人は自分のことしか考えていないことが多いのではないかと私は思う。
自分だけを満たせばいい。何はともあれ自分が幸せでいなくては。自分さえ不足しなければいい。
そんなふうに考えてはいないだろうか。
足元もおぼつかないときにはまずは自立することも大事だが、それが過ぎても1人にこだわりすぎていないか。それが幸せだと思い込もうとしていないか。
過去の自分にむけるつもりで私はこの文章を書いている。
ない、という「枯渇感」もある、という「充足感」も自分の頭の中にある。
自分にはない、なんて思わずに必要なものは全て自分のなかにある、と思って行動してみて欲しいと思っている。