生きるのに成功しているわけだよね

お守りもおみくじも買わなかった。

毎年パートナーの趣味でとある神社でお札を二枚買うのだが、私も年に一回お守りかおみくじを買うのが一種の願掛けになっていた。

買わなかった理由は、もう生きてるだけでありがたいな~と思ったからである。

毎年お参りしては「今年もおかげさまで生き残ることができました。どうぞ来年もよろしくおねがいします。」などど祈りついでにそういう気持ちを忘れないようにお守りかおまけつきのおみくじを買ってそれを身に着けていたのだが、今年はもういいなとお金だけお賽銭箱にいれて挨拶して帰宅した。

 

生きてるだけでありがたいのに、それ以上を神仏に願うのはなにか違う気がした。

 

私の死生観はもう定まっていて、それほど生に執着はないのだとしばらく思っていたのだけどいざ死を前にすると日常のいろんなことがありがたく、多分死ぬ前日常のなんでもないことをいくつも思い出すのだろうな・・と思うようになったのである。そうしてこのまま社会に対して、未来に対して、よりよくなるように貢献しないでたらたらと生きるのはなにか悔しいというか恥ずかしいなと感じた。ブログを始めたのも、精神疾患や病を患う人の多くが日常生活からダメになっていくのに対し悔しい思いをしていたからだ。一度日常生活が崩れれば、それをもとに戻すのは病にかかった状態では難しい。

うつになったらこうしましょうああしましょうという記事は書こうと思えばかけるが、私自身落ち込んだとき「そんなことはわかっとるわい!」だったのでそれよりはもっとゆるいブログをやりたかった。

 

それで今まで自分がみてきてこういうブログや記事に救われたよな、と思うなかからテーマを決め、自分のペースで無理せずできそうなことを書きはじめた。

無理せずに日常を生きよう、を伝える側が無理するのはちゃんちゃらおかしい。

毎日ご飯を食べるようにブログを書こうときめてもう年末。アクセス数も読者登録者数も増えてありがたい限りだ。何が変わったかと言われたら、必死になって生きていた時みたいにカリカリはしにくくなったなと思う。もう一つは記事を書きながら生活が整ってきた。虫歯を治して歯医者に「すごく状態がいいですね」と言われるほどに口内環境は改善したし、病気が分かってそれまでの不調がはっきりして、副作用に悩まされながらでも少しずつ改善してきているのを実感している。料理も随分バリエーションが増えた。どういう風に生活すれば楽に清潔に暮らせるのかを調べて実行してみたり、遊んでみたり。ごく当たり前のことを私はしてこなかったのだなと思う。特に遊ぶことは来年以降もっと充実させたい。実はまだやってみたいこといろいろあったんだと自分でも驚いている。

 

お守りを買ってなにかに無意識にすがらなくても大丈夫なのだと私は思う。

ダメだったらその時にまた考えよう。

とりあえずこの記事を読んでいる人は生きているということで、生きるのに成功しているわけだからそれだけで実はすごいことだよね、と思う。