どうぞお幸せに

どうぞお幸せに、と祈ることがある。

私が祈りと書くと少し胡散臭い気もするが、願うというか「ああ、あなたがこの先の未来でどうか気づくべきことに気づき、成長し、成長せずとも健やかであれ!」というHUNTER×HUNTERいうところの念みたいなものを発動させるのである。

 

歳をとると怒りっぽくなる人と穏やかになる人の二パターンしかない、と福祉に関わる人から聞いたことがあるがそうなのかもしれない。元々穏やかだったパートナーは年々仕事のストレスもあるのか社交的であるにも関わらず怒るとか癪にさわるといったことが増えているように感じるし、30代まで怒っていない日がないとまで言われ続けた私は逆に「まあまあ」ということが年々増えている気がする。そういえば怒ったことやわがままを聞いたことがないと言われていた母方の祖母は介護施設に入る時ひどくわがままを言って母や施設の人を困らせたと聞いて驚いたことがある。私が訪問した時も「はよう帰りたいわ。ご飯食べに行こう。」とか言って差し入れの饅頭をバクバク食べていたから「せやなあ」と返したのだが、少し怒り口調で「わたしゃここで死ぬんじゃなあ。」というので「まだ長生きしてよ。」と会話した記憶がある。一方父方の祖母はネチネチした嫌味は言わないが、日頃からはっきり物申すタイプでビールとカープが好きという人で死んだ時は「もっと頼ってくれたらよかったのに・・」と周りから惜しまれ、重篤な病にかかったにも関わらず最後は本当に眠るように亡くなった。というか年々優しくなっていったという感じがある。意識がはっきりしていた時には子供心に怖いばあちゃんだったのに、死ぬ間際入院先で必要なものを購入したり看護師さんから話を聞いたり世話をしていたら私の名前を呼んで手を取って「ありがとう」とかいうものだから本当に当人かと疑ったくらいである。

 

だからと言って私は他人をどうこうできないのであり、だからこそ心から祈ることが増えた気がする。目の前の相手が私にとって本当にしょうもないことで怒る時、やるべきことをやらない時、礼節を欠く時、話に耳を傾けない時、以前なら「ああこの人はそういう人なのだ」とさっぱりと切っていたが今は本当に気にも留めなくなった。全ては流動的であり、意識は変化し続けるものなのだ。

 

そう話すとパートナーは冗談なのか本気なのか「もうお前は終わるんだな」というが、終わるのは私もパートナーもその他の人間も同じである。健康なパートナーが少し羨ましいし、まだそんなことをいうことに対してかわいいなあとすら思ってしまう。十年前なら家飛び出して相手が謝罪して行動を改めるまで決して許さなかったことであろう。言っていいことと悪いことがある、とか言って。

 

私にもこれまでどうぞお幸せに、と祈ってくれた誰かがいて、それが今の私にどこかで繋がっているのかもしれないと思うと愛おしい。