バセドウ病とメンタルケア

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バセドウの関係で眠れたり眠れなかったりする日はあるけれど(そして憩室炎で腹が時折痛む)、だっるいな〜と思いながら日々をなんとか暮らしている。

メンタルの調整だけはしっかりと、無理せずにゆっくりやるしかない。

今日だって朝から微熱である。外は涼しくなってきたのに、私一人朝から盛大に汗をかき、着替えるところから始まった。

こんなに症状というものが重なると時々「なんで私が!!?私悪いことしたかっ!?」って時折鬼モードになるけど(バセドウで寝汗で中途覚醒するのよな)、その都度深呼吸をゆっくりして「しゃーないしゃーない。人生はサイコロみたいなものだから」と自分に言い聞かせている。実際そうだから。

 

人生というのは生まれた時から不平等である。

生まれた環境、両親や家族との関係性、良い教師に巡り会えるかどうか、良き友に出会えるかどうか数えればキリがない。

しかし前にも書いたように私は人生全てにおいて幸せだった人にも、完全に不幸な人にも出会ったことがない。成功するのも失敗するのも病もサイコロの目だと思えばいい。

もちろん今はネットやgptがあり、それらを活用して”うまくいく確率”を上げたり、もしくは”アファメーション”を使ってみるのも良いであろう。

しかし完全にはならないのである。

人によってはずっとおなじ数字しか出ないこともあり、人によっては自分の思った通りに数字が出る人もいる。運である、という言い方は私は好きではない。それは全てを放り投げてしまう意味を持っているから。

だから私はサイコロ(確率)だと思うことにしている。

いいことも悪いこともサイコロだと思えば多少は気が楽になるからである。

 

大体バタついたところでどうしようもない。

今すぐ健康にしてくれ!HPフルでお願いします!!と言ったところでどうにもならないのだから”今はたまたまサイコロの目が連続で同じ数字が出てるだけよな”と思ってゆったり構えておくくらいでちょうどいいのである。そんなふうに私は日々を生きている。

 

こんなふうに書くと「いや、私は俺は今すっごく辛いんだ!だから今すぐ良くなる方法を教えてくれ!」という人もいるかもしれない。(私のブログの読者層にはいないと思うが)それに対する回答があるとすれば「そんなもんあるなら世の中医者もカウンセラーも薬品会社もいらんわい!!平和賞とかその類の賞受賞しまくりじゃい!」である。

結局自分の機嫌は自分で取る他ないのである。

大人になってまで他人に”どうにかしてくれ!”ってのは見当違いであろう。

 

でも怒鳴りたくなる気持ちもわからないでもないのよな。

私もやりたいことが思うようにできない苦しさは日々感じているのであり、諦めるなとか言われても「どないせぇっちゅうねん!」てなことはある。

休んでろと言われてもこちらにも生活というものがある。

周りを見渡せば私より歳をとった人が健康的に働き、収入を得て、友人やお客さんと楽しそうに会話している。そういうのをみるとどうしようもなく自分が嫌になるのだ。

 

嫌になるけれども、振り返ってみればこんな私でも関わろうとしてくれる人がいて、声をかけてくれる人がいる。親切な人がいる。だから私は自分を必要以上に責め続けることはできない。私は他者を生かし、他者もまた私を生かしていると感じるからである。

 

責めるというのは対自分であっても対他者であってもパワーをつかう。

責める余力があるうちはまだ元気だと思うくらいでちょうどいい。

少なくともご飯は食べられるんじゃないかい?

私は今絶賛流動食中であるが、腹に食べ物がないと怒るパワーもないのよな。

死んだ母方の祖母はよく「人間食べられているうちは元気じゃあ。食べられなくなったらおえんが。(ダメだよの意味)じゃけん、嫌なことがあっても食べんしゃい。(食べなさいの意味)」と言っていた。実際その通りである。腹にパワーとなるものがなければ責めたり怒ったりする気力は次第になくなるのである。

そう考えると毎日怒っていたり責めている人は食べ過ぎなのかもしれぬとふと思ったりする。

 

ま、インコに顔を近づけてインコ臭を吸い込みながらゆるりとやっていく所存である。

せめて心だけは鳥の羽のようにふわふわでありたい。

 

Photo by bluesilence