楽しい、を考える

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考える、ということは億劫である。

それほど欲を持たなければ昨日と似たような一日がまたつづく。だいたいそれで生きられるのだから考えなくてもなんとかなる。

 

考えることばかりしていた私が、療養に入って自分でも驚くほど考えていないし、行動もしていない。すぐに疲れるからというのもあるし、思い通りにできないイライラが諦めに変わって虚無である。それでも、まだほんの少し残った理性で頭を動かす。

 

なんでもうまくいっているようにみえるパートナーに「いつも楽しそうだね」というと、「楽しいかどうかで選んでいる」と返ってきた。仕事でも、遊びでも、人間関係でも、と。「あなたは楽しくないの?」そう聞かれて答えに詰まった。「楽しいかどうかで選ぶなんて考えたこともなかった。そもそも日々の生活って楽しいかどうかでやるものじゃなくて生きる為の義務みたいなものじゃない。」

 

そうなのだ、生活を楽に、と自分で書きながら私自身楽しいかどうかで何かを選んだことがほとんどない。気がつけば他人の世話をし、他人に時間をさき、自分がどうなりたいかやなにをしたいかなんて後回しの人生を歩んでいる。唯一ブログはやりたいことではあったが、今更それが楽しいかと問われたらnoである。私にとってブログを書くのは自己表現であり、それ以上でもそれ以下でもない。もちろんいろんな人が見てくれるのはうれしい。うれしいが楽しいわけではない。

 

私にとって楽しいはなんだろう。少し考えて「私、楽しそうな顔してる時ある?」とパートナーに聞いてみた。「あるよ。お、これは!っていうときのワントーン明るい時と、ニヤァっとした時。思い当たらない?」

たしかにピンポイントではある。船だったり、動物だったり、変なものみつけたときだったり、聞いた音楽が素晴らしいときなどだ。だがそれらは全て単発であり、持続はしない。ずっと集中していられないのである。どちらかといえば嬉しいに近い。

 

いや、考えてみればほんの数年前までは忙しく、余裕もなかったが楽しかった。やること全てが血肉になる感じとでもいうのだろうか。こう書くと昔は良かった、という風になるから嫌だけども今は楽しいというより穏やかである。もっというと凪である。

 

私がじっとしてるとろくなことがない、と他人から言われるがたしかに周りの世話ばかりしていたらあっという間に病になった。それで今度は本当に動けないのだから苦笑である。少しずつ回復はしてきているものの、おそらくアグレッシブに動くのは難しい。年もとることだし。話を戻そう。命に限りがあるなら私はもっと自分のために楽しいで選ぶほうがよいのではないか?

 

楽しいとはなんだろう、と思う。

こう、胸の底からうわぁっと湧き上がるようなものを私は久しく感じていない気がする。

 

Photo by bluesilence