リソウの世界

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ふりだしに戻る、ということが最近とても多い気がする。

単に年を重ねてそうなっただけなのか、経験値不足なのか精査したわけではないから原因はわかりかねるが、「ああふりだしに戻ったな」と思う出来事が多い。

 

ほんの5年前の理想主義の完璧主義の自分だったら、そういう状況に対してきっと現実的にとれる最善手をとって対処しようとしただろう。今もとれる最善手をとろうとする姿勢は変わらないけれど、それが近い未来なのか遠い未来なのかの違いがある。

今は何というか、ずっと遠い自分が死んだ後の未来についても想いを馳せて考え、行動することが増えた。自分のやることが、もしも遠い未来に影響するのならこの行動をとるべきだろうか否か、的なことを考える。

 

少し話は横にそれるが、私は自分という概念についても(心理学・哲学的に言えば自己)、死についても自分なりの解をもっていて、ゆえに存在意義だとか死に対しての恐怖はほとんどない。それらについて考える機会が幼少期から山のようにあったし、人の話を聞くという仕事に一時的にでもかかわっていたこともあり、他人がどういおうと一応「私はこうです」という意見を持っている。

 

体があまり強くはないからいつも時間に追われるような感覚の中で生きてきた。

この地球上に「私」という概念が存在できるのは一瞬なのだと理解している。

なすべきことをなしとげなければと、いつもなにかしらの野心を抱いては己の無力さに嘆く暇はないと自分を叱責してきた。

 

今の私が思うのは、目先の未来ではなく、遠い未来に向けて種をまきたいということだ。自分がいなくなった後の世界で「これが残っていたら素敵だな」「こういうふうになっていたらきっと過ごしやすいだろうな」と思えることにつながるといいなと考えている。

 

でもよくよく考えてみるとエゴだなぁ、とも思う。そもそも幸せとは主観的なものだ。良かれと思って種まきしたことで遠い未来に悪影響がでたら嫌だ。そうして嫌だと思う気持ちもエゴだなぁと思う。一般的なより良い世界ができたとして100%幸せにはならないし理想の世界にもならない。

 

それでも、わがままだと思うけど、私はみんなで生きようぜ、と思う。生まれてくるんじゃなかったと思う人が減って、生まれてきてよかった、生きてみてよかったと思える世界になったらいいなぁ。

 

具体的になにができるのかわからないけれど、日々の中に笑顔が生まれるようにしたいと思う。

 

Photo by mi-tette

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