ヒトは気をつけないとネガティヴに考えがちだ、と思う。元より脳がそういう仕様になっているのだから(ネガティヴに考えることでの危機回避)、尚更である。
言葉というのは便利なものだが、何度も使うので刷り込まれるものでもある。自己暗示、と書くと怪しげな雰囲気がするが身近な例で言えば神社へのお参りである。よくあの神社は縁結びが、縁切りが、商売繁盛と聞くが、『この神社は良縁を結んでくださる』『この神社にまいると縁が切れる』という強い想いこそが実現に至るのであり、別に神がどうこうしているわけではない。お祓いや祝詞もそうである。あれは強烈な暗示である。脳は主語を認識しないので、祓われたり祝われたりすると自分の脳が勝手にそういうふうに動くのだ。まあ厳密にいえば臨場感とかゆらぎとか色々細かいことはあるのだが、言葉というのはとても強力な力を持っているのである。だから取り扱いには気をつけねばならない。
「自分の人生なんてこんなもの、この先も変わらない」という人がいるがこれはネガティヴ自己暗示である。未来のことなど誰もわからない。そんなものがわかったら便利な反面面白くない。まだきていない時間はまさに空白であり、無限の可能性を秘めている。それをわざわざネガティヴな自己暗示で決めなくていいじゃないか。
ちなみに声に出さなければいいじゃないかという人がいるが、文字で書いても読んでも思考しても同じ効果がある。この世界は情報でできており、情報とはなにかと問われたらすなわち言葉である。
私はしばらくのあいだ心理学の講師として携わっていたが、その時思ったのは人は驚くほどネガティヴに考え、言葉によって自分を縛っているということだ。「どうせするなら楽しい妄想を」と私はよく笑っていったものだが、それを実行する人はほとんどいなかった。
これまで波乱万丈と言われる人生で、私が狂いかけても狂いきれなかったのはそれまでに読んだ大量の本の影響であり、ピンチになると本の中のセリフや文章が私の頭の中で自己暗示となっていたからなのだと思う。
私はだからYouTubeをみるのはひかえて本を読もう!と言いたいのではない。そんなことは各自の好きにすればいい。そんなこと言ったら私の好きな指揮者が手掛けている音楽の大半はオペラと宗教歌であり、神を讃えよとか死なないで恋人よ〜〜とか酒を飲み交わそう友よ!とかそんな内容である。聞いたからといってすぐ影響されるわけではない。ただもしかしたら酒というキーワードを何度も聞いて飲みたくなる人はいるかもしれない。劇場の近くとか飲み屋や宿泊施設があったんだろうなあとか想像してしまう。ううむ。
話を戻そう。言葉が強力ならそれを上手く使えばいいのである。そのための学びであり、もっと楽しめばいいのだと私は思う。
なによりまだきていない未来を自分で真っ黒に塗りつぶす必要などないのだ。
どうか自分を含めた皆が希望をもって、生きていってほしいと願っている。
photo by 安西成文
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