役割が変わらないと見えないこと

朝夕随分涼しくなって、今朝は起きた時にあまりの涼しさに驚いてしまった。

今夜は冷蔵庫の野菜が色々あるから、牛蒡ときのこだけ買い足して蒸し器でおこわにすることにしている。蒸し器はパートナーの母親が物置の隅に大量に持っていた食器の中にあったもので一度も使っていないというのを聞いて、私がガンガンに使っているのだが結構ヘルシーに野菜を食べることができるのでなかなか良い。

 

息子の大学がようやく後期が始まったので家の中は静かである。

我が家では主に私が家事の中心を担っているが、その役割を押し付けられたことも、家族の誰かに押し付けたこともない。が、役割が変わらないと見えないことはあるのだろうなと思う。

 

というのも私は長年両親があれこれ私にばかりああだこうだと文句を言うのが解せなかったのだが、年を重ねて私が養育者の立場になると息子に同様にああだこうだと言っていることがあって、いかんいかんと思いつつしょっちゅう「シャーっ」とブチ切れていたりする。と言うのも息子が家事をほとんどやらなかったり、ご飯や生活を疎かにしているのを見るとこいつ大丈夫か?!あと数年で一人でやっていけるんか!?と本気で心配になるのである。

それで全くダメならまだしも、やればできるのでついつい指導のつもりで言ってしまうのである。できない人にはそもそも期待はしない。

考えてみれば私の妹たちは家事や生活というものがほとんど壊滅的であり、両親自身も壊滅的であったから親の立場からしたら、唯一少しでもできる私に期待したのだと思う。ちなみに家事一才を教えてくれたのは母方の祖母であった。

 

誰かにものを教えることもそうだ。

私が教わる方であった時、どうしてこんなにわかりづらい説明をするのか全く理解できなかった。ところが講師として教える立場になった時最初「その説明ではわかりません。」とか「どういうことですか?」「ここができません」といったことが非常に多く、その都度どうしたらその相手が理解できるようになるか、ということに苦心した。

教える方は自分がわかっているから(情報を持っているから)理解できているのであって、教わる方は全く情報ゼロである、という前提が抜けていたのだ。

 

経営者と従業員の立場だってそうだ。

指揮する側と現場側はまったく事情が異なる。

立場が変わってみなければわからないのである。

よく経営者の立場になって〜などというが、多くの従業員は経営者になることはまずない。その立場になって考えることができる人は経営者になることを決めている人か同等の情報を持っている人である。

 

「いつかこちらの立場になればわかるようになるさ」と人生の諸先輩方に教わったが、ごめん、私はいつかなんて待っていられない。私はせっかちであり、たった今わかりたいのである。そういう意味ではネットですぐにいろんなことがわかる世の中になって本当にありがたい。仮想上で私たちは何にでもなれる時代がもうすぐそこまで来ていると私は感じている。

 

だから、もっといろんな役割を自分で持ってみたらいいのだと思う。

そのほうが世界がひらけて私は楽しいと思うのである。